そもそも罪って何だ!?
眠れそうもないので書きます。
夫のおかしな言動に過剰な反応をしているのは何よりも私自身が「罪悪感」という亡霊に悩まされてきたから。
下書き保存している記事に、私の生い立ちを書いてる。
ある事件で幼い頃から罪の意識を感じながら生きてきた。
そして思春期に罪悪感から開放されたいがためにあるキリスト教系の宗教に入り罪を許してくださる神を信じた。
善と悪、正しいと間違い、白と黒、それを測るモノサシになったのが聖書だった。
25年もの間わたしはそこに居た。
信仰を持って神に喜ばれる生き方をしようと努力した。
しかし、その組織の中では色んなことが有り過ぎて、
私の心は潰れた。
白か黒しかない(例えば救われるか滅びるかというように二極化している)信条の中ではグレイゾーンは信仰の弱い人とみなされる。
聖書によると人間は全て生まれながらに罪人で悔い改めるならば許される。
心の中までご覧になる、と書いてあるので心が休まる時などない。
罪という概念はここから生れたんじゃないだろうか。
ある時わたしは、、
いや、こんなところに細かく書いても理解されるはずも無い。
が、洗脳されていた二十歳の私に起きた事件は私に決定的な罪の意識を植え付けた。
自殺さえ禁止される宗教の中でどうすれば罪を償えるのだろう。
そんなことを毎日考えて自分を責め続けた。まずは自己犠牲を示す生き方をすることだった。自分を後回しにして神のため人のために自分の命(体力お金時間思いなど全て)を捧げることにした。
体力の持ちこたえるうちはどうにか動けていたが消耗し切ると安全装置としてのブレーカーが落ちた。
結果として結婚2年目に重いうつ病を患うことになってしまった。
それでも頑張り続けることに価値があると思いこんでいる自分は自分を犠牲にすることで罰を与え続けた。
少しでも元気になったら集会に行かなきゃいけない伝道にも行かなきゃいけない頑張らないといけない。それが神へと組織への贖罪なのだから、と思いながら10年以上が過ぎた。
私には「罪」と「罰」という言葉が重過ぎるのだ。
うつで集会にも行けない時期が続いたので毎日聖書を読んでいた。
が、ある日ふと、気がついた。
聖書は、どの箇所を強調するかによって如何様にも解釈できる書物なのだ。
集会に来ることを強調すれば集まりあう組織になり、伝道の箇所を強調すれば伝道する集団になる。
取り上げられることはなかったが仮に組織が「地を破滅させている人達を破滅に至らせる定めの時が到来した」という黙示録の一聖句を強調したとしたら恐らくエコな団体が出来上がっていただろう。
しかしそういうことはなかったので、
どこを強調するかで組織の思い通りの集団ができるのだな、と気づいた。
そしてネットの時代が来てあれこれ調べているうちに、
組織への疑問や、聖書そのものへの疑問、そして聖書の神への疑問も出てきて、
前々から浮かんで打ち消していた疑問をもう一度外側から見つめなおすことにした。
そして今から13年前、
私は夫と共にその宗教を辞めた。
しかし時々やってくる罪悪感、夢で魘されて「ごめんなさいごめんなさい」と叫んで目が覚める、そんなことは宗教をやっていた頃の後遺症だと思いこんでいた。
それは確かに大きなトラウマになっている。
子供の頃のトラウマと思春期から続いて13年前に辞めるまでの宗教トラウマ、
いずれも課題は「罪」
そんなわたしだから、パンケーキ焦がしたくらいで「罰しなきゃあかん」なんて言いやがる夫に腹が立つのだろう。
私の罪悪感が感染したんだろうか。私が開放された今になって?
そーーんな小さなこと、
どうでもいいじゃないか。
何が罪だ!何が罰するだ!!とことん罪悪感で苦しみぬいた人間からしてみたら、
パンケーキ焦がしたくらいで何が罪だ、何が自分を罰しなきゃだ、
ああ、腹が立ってたまらない。
生きてたら色んなことがある。
理不尽なこともある。
失敗続きで心が弱ることも当然ある。
だからこそ、
小さな事くらいは、取り返しのつくレベルの失敗なんて罪でも罰でも無いわい!!
アハハ、焦がしちゃった捨てちゃおう。で済ませて欲しかった。
これも私の拘りの押し付け?
暴力?
私の友人が、夫婦仲の良かった友人が夫の失業をきっかけに離婚することになって、
それって単に金の切れ目が縁の切れ目という単純なものではなく、
お互い我慢しあう、それが過ぎた、これが離婚の一番の原因だと思った。
だからこういう時こそ、気まずい思いはしても本音で(しかし言葉とタイミングは選んだ上で)きちんと話し合わないといけないんだたと思う。
我慢してたらいつか嫌いになるからね。ちゃんと伝えないと。
明日、言おう。