うつの大波小波
この一週間、おなかを壊していて動く気力も体力も消耗しているうちに、
なんとなく鬱の波に飲み込まれていたような気がする。
夕べあんな動揺した記事を書いたのも、
今思えば鬱の仕業だったかもしれない。
そうとう参ってる感じがする。
私が大好きな作家の中島らも氏は、
心が雨漏りする日には。
うつ病を扱った本が多く出版されている中で、らも氏の面白い文章と相変わらずめちゃくちゃな行動が「らもさんまたやってるよ~♪」的に、
私のうつな心さえ和ませてくれた。
そして、激しく共感できるところが幾つかあった。
例えば、
”
おれは昔からそうなのだが、どんな状況下にあっても、自分自身を観察するもう一つの目のようなものを持っている。喜んでいる時には、~中略~と思っているし、ピンチのときには、「おいおい、おれは今、かなり困っているぞ。いったいどうやって切り抜けるつもりなんだろう」と、他人事のように考える自分がいるのだ。
”
=「心が雨漏りする日には」の一文を引用=
ここが私と同じで、
私は冷静なもう一人の自分と表現していたが、恐らく同じものだろう。
この現象をなんと呼ぶんだろう、同じような人って居るんだ。
と嬉しかった。
私は感情にまかせたままブログを書くのでものすごーく動揺しているように思えるかもしれない。どれだけ取り乱しているんだ、と心配してくださる方もいらっしゃるかも。
ところが、らも氏現象で(と名づけてみました)、
もう一つの目が、動揺している私を眺めて面白がっている。
こういうことって他のうつ病患者さんもあるのかな?私の周りには居ない。
私は単極性のうつ病と診断されてはいるけど、
最近もしかしたら極端に期間の短い躁鬱なのではないかと思ってきている。
日替わりで、いや、もしかしたら時間単位での躁鬱。でも、そういうのって存在するのかな?
動揺して打ちのめされている私。
それを横で眺めている極度に冷静な私。
どちらも本当の自分だ。
しかしいつも思うのは、
私はさほど光も影もない単純な人間のようで、
鬱に陥りました→鍼でころりと落ちました→この時点では鬱の考えは憑き物が落ちたかのようにどこにもありません→体調の辛い日が続きます→また陥ります→鬱以外の考え方が浮かびません→鍼へいきます→鬱という憑き物が落ちます、
ずっとこんな感じで、
つかみどころがなくて30年近く一緒に居る夫でさえ理解できないらしい。
病気なのかもしれないし、個性なのかもしれない。
そういう意味では鬱状態の時に書く文章は私の中の鬱側からの一方的な考えに過ぎない。
だって憑き物が落ちた(比喩です)ときにもうその思いは消えているのだから。
これを鬱の波と言う?気分障害と呼ぶ?自分では分からない。
再び、らも氏の本からの引用。
”
ほろほろ酔って庭に出てみる。もう空が高い。星がきれいだ。目が良くなったので、星々がくっきりと見える。何十万、何百万光年昔の光。それに比べれば、おれ一人の人間が躁だ、うつだと騒いでいるのがほんとにちっぽけなことのように思える。(中略)
うつ病は確かに自殺に至る病ではあるけど、予備知識があればそれは避けられる。癌に比べればちゃちな病気だ。君もかすんだ目で星空を見ろ。そして叫べ。
「くたばれ、うつ病!」
”---本文よりーーー
らも氏に激しく同意。