無理と遠慮と我慢
今朝また夢で魘されて自分の声に驚いて目が覚めた。
あかんやつだ。
このまま引き戻されるわけにはいかない。
まるで薄い氷の上に立っているようで下手をするとまた冷たい水の中に落ち込んで這い上がってこれなくなってしまうから、こういう時こそ客観的に自分を見つめなおし建て直さないといけない。
「無理」
「遠慮」
「我慢」
この化け物は物心ついた頃からずっと私に取り憑いていた。
そうしなければ生きてこれない環境だった。
『お母さん、これ買って~』なんて強請ったことや、お父さん~って言いながらじゃれ付いたことなど一度もない。そんな世界を知らなかった。
それが当たり前で、保育園でも小学校でも無理と遠慮と我慢の子供だった。
結局思春期に新興宗教にハマってしまったのもその組織が無理遠慮我慢の美化される世界だったから、自分が認められているように感じて心地よかったんだろうと思う。
(最初はね)
そしてその世界でも無理と我慢と遠慮を続けることでがちがちに凝り固まった人格ができてしまって、
・・・・そして壊れてしまった。
宗教から抜け出して13年。
今では組織だけじゃなく聖書も神も信じていないくらい抜けた。
なのに凝り固まった人格は簡単には変わらなくて、今なお無理をして頑張ろうとするし、自分さえ我慢すればと思いながら遠慮して生きている。そういう所がある。
それでもこの10数年、色んな本や人と出会い多くの経験をして学んだ事も多くて、
確実に頭で理解しているのは、
今の自分にとって無理と我慢と遠慮はろくなもんじゃない、ということ、
そして、私にはもう無理我慢遠慮をしている時間は無い、ということだ。
人生は7、80年。
健康年齢は、と考えた時に今でさえ健康を損ねている自分にそんなに長い人生は残っていない。
もう無理しなくてもいいんじゃないか、と思う。
遠慮して生きていくなんてアホらしいとも思う。
我慢してもろくなことがないと思う。
短い人生。
もういいじゃないか。
もう我慢するのはよそう。もう無理しない。遠慮しないで堂々としたいことをして言いたいことを言ってみよう。
「ゴミ屋敷 画像」で検索すると出てくる沢山の写真。
そんなもの眺めて癒されてるなんて病んでいるよ。
いや実際うつで病んでいるのだけどね。
無理して我慢して遠慮して、なのに頑固で、ややこしい。
だけど「無理」「我慢」「遠慮」からの開放を人の犠牲の上に成り立たせるのもまた間違っていると思っている。
自分の自由が誰かの不自由ならば、そんなものは要らない。
それは傍若無人に生きるのとは違う。「無理」と「我慢」と「遠慮」は化け物のように見えて実は私を生き延びさせるためには必要な天使だったんだ。だから化け物扱いして否定して嫌うんじゃなく、そろそろ手放せる時期がきたから快くサヨナラをしようという感じ。
要するに、
自分はもう一生分の無理と我慢と遠慮をしてきたのだから、
これからはもうそういうのを卒業して、
等身大の自分で笑いながら生きていきたい。そんなふうに決意して文字にしてみました。
アザミの花、摘んできた。